天秤皿

思考を言語化するのがとにかく苦手だ。それを発言するのはもっと苦手だ。説明が下手すぎる。

いろいろな概念をざっくり輪郭でつかみ脳内で立体配置しているのでそれを言葉に翻訳して形を整えて…というのがひどく疲れる。なにせ立体なので情報量が多い。中身があったりなかったりなにかしらの色があったり硬度が違ったり立体同士に位置関係があったりするのをどこまで説明すれば良いのか非常に困る。解像度いくつ?ここまでで何を言っているのか分からない方がおそらく多数派だろうがつまりそういうことだ。説明が下手。そもそもこの立体たちはなんとなく硬かったりなんとなく青かったりして、それに対してどれだけ造詣を深めようがはっきりきちんとしたカタチにはならない。意味は常に揺れ動くもので、私の中で「おおむね似通ったもの」は出力する際には「同じもの」として処理していたりもする。そうしないと言語化があまりにも煩雑だからだ。「言い換え」は文章を噛み砕く際に大変有効な手段であるが、言い換えられる前と後のソレはやっぱり違うモノなのだ。私はそうやって似たような器同士で移し替えられるときにたいていこぼれ落ちていくようなものがとても好きだ。

だから考察とかダイマとか感想とか、そのテのものはものすごく向いていない、たぶん。脳内の立体模型めいたものは条件反射的に構築され、それを言葉に翻訳したときに取り残されるものが私にとっての「エモ」の味だからだ。ただ悲しいかな私にはそういうぐちゃぐちゃの模型たちをそのままに保存しておけるような脳みその容量が無い。むりくり圧縮しないとまるごと失ってしまうハメになる。

まぁ翻訳もなかなか楽しい。翻訳されて出てきた文章を受けてまた新しい模型が構築される、それを観測して翻訳する…というサイクルで純度が上がっていくのはおもしろい。そうしてどんどん取りこぼされていって、最初に愛したものはいつの間にか消え去っていて、それでも手元に残ったものは確かに愛おしい。